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先日、豊橋公園へポケふたを見に行った帰りに、豊川沿いの遊歩道を歩いてみました。
吉田大橋豊橋(とよばし)を眺めているうち、ふと「こんな立派な橋が架かってなかった時代、どうやって豊川を渡っていたんだろう」と考えました。
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吉田大橋
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豊橋(とよばし)

そういえば、通っていた小・中学校の校歌に「名高い渡り しかすがも」とか、しかすが渡りと賞(め)でられし」なる歌詞が出てきたような気が・・・
ということは、やはり「渡し船」で川を渡っていたのでしょうか?

気になって眠れなくなりそうだったので調べたところ・・・

835年に「飽海の渡し」を4隻に増やす太政官符が出されている
 ↑平安時代には飽海川(豊川)にすでに渡し船があったようです
10世紀の半ばには「志賀須賀の渡し」が歌枕として詠まれている
 ↑清少納言の『枕草子』にもその名が登場するそうです
中下流に20箇所以上あった渡船は、架橋により姿を消していった
現在は「牛川の渡し」のみが残っている

平安時代、飽海川(今の豊川)は、川幅がおよそ4kmもあり、当時の「東海道」の中でも難所として知られていました。
旅人は渡津(現在の小坂井付近にあったとみられる)から船で飽海川を渡り、「城海津」「石塚」あたりで船を降りたようです。

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昔は会議所のすぐ近くまで川が広がっていたようです

思ふ人 ありとなけれど ふるさとは しかすがにこそ 恋しかりけれ(能因法師)
(思う人がいるというわけではないけど、やはり故郷というものは恋しいものだなあ)
惜しむべき 三河と思へど しかすがの渡しと聞けば ただならぬかな(赤染衛門)
(あなたとの別れを惜しむような身ではないけど、さすがにしかすがの渡しを渡って行くと聞けば、心穏やかではいられないものです)

飽海川は暴れ川であり、頻繁に流路を変えていたようで、時代が下ると海に近く風などの影響を受けやすい志賀須賀の渡しよりも、より上流にある渡しが利用されるようになりました。

豊川に橋が架けられるようになったのは、はっきりとはしませんが承久の乱以後、北条泰時が執権を務めていた頃、「今橋」が架けられたと言われています。
(鎌倉殿の十三人、おもしろいですよね)

江戸時代には、「吉田大橋」(紛らわしいですが今の「豊橋(とよばし)」です)が架けられましたが、
大雨などで橋が流出して架け替える際には、「船町の渡し」が活躍していたそうです。

川を渡る重要な手段だった渡し船も、交通量の多いところから順に橋が架けられるようになると、時代の流れとともに廃止されていき、
昭和55年に「三上の渡し」「上三上の渡し」が廃止されると、現在残っているのは「牛川の渡し」のみとなりました。
参考文献『とよはしの歴史』(平成8年・豊橋市発行)


さて、豊川の渡船の歴史について詳しくなったところで、今度は「現在運航中なのはここのみ」という牛川の渡しが気になって眠れなくなりそうです。

そこで、いろいろリサーチしてみたところ・・・

牛川の渡しは「市道」という位置づけである

昭和7年から豊橋市営として運航されている

高校生が通学に利用している(自転車も載せてOK!)

川の流れを利用しつつ、船頭さんのたくみな竿さばきで進む

という情報をキャッチできました。

え!?牛川の渡しって道路(市道)だったんですか!?

ごめんなさい・・・豊橋に〇〇年(年齢と同じ)住んでいたのに、全然知らなかったです。
「川の上を船で渡る市道」と言っても、にわかには信じられないかもしれませんね。

牛川の渡し
Google map より

これはやはり、実際に行ってみて乗ってみる、そして写真をみなさんにも見てもらうのが一番なようです

さっそく、シマウマさん、クリオネさんと現場へGO!
現場からのリポートは、次回、当ブログで公開予定です。楽しみにお待ちください

文/カピバラ

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